來了
大連の基礎知識
実際の感触
街の全体:
家を出るまでの想像と訪れた後の印象は大きく違って感じた。北京は一大都市であるし、それに次ぐ深センなどは特別行政区であり、そういった都市は意外と映像も多くあり正に発展途上との認識でいた。一方大連は古い町並みが保存され今でも使っていることや近年ソフト産業が盛んであること以外はあまり情報がなかった。こちらへ来るまでの間に書籍、Webサイトで入手した情報もそれに近い情報であったので、やや古めかしい街かと想像していた。ところが街並みはほとんど近代化されていてハイセンスな都市である。半島である土地柄、土地自体が狭いとことで、加えて起伏の激しい土地であることから平地が少なく、その狭い土地に人口が密集している。中心地に200万人、市全体でも600万人と非常に大勢生活している。
住宅のこと:
従い住宅は全て高層住宅されている。都市の真ん中でも高層住宅は立ち並び壮観である。住宅は国の施策で建てられている。そのため供給量に対して需要があるのかはだたしく評価されていないようだ。一方的に住宅を建ててそれに借地権として販売する方式。街中見回せば至ることろに高層住宅が建設中である。街に中心にな限らず郊外に限らずである。今、正に発展の途上にある街であり、この結果として将来どの様に化けるか、とても興味がわく。従来は高層住居は、床も壁も水回りの工事はなにもせずにそのままで販売されており、購入者がすべての工事を行うようになっていた。工事の坪単価は10〜20万円とのこと。中国では、自分で土地を持つことができない。全て国からの借地権であり、孫子の代まで引き継げようだ。
車について:
中国の国産車メーカもあるし、日本をはじめ海外のメーカも車を中国生産していて、多国、多品種の車を見ることができた。タクシーはVWや中国製がよく見られる。高級車は、ベンツ、アウディ、日本車、ヒュンダイ、ボルボ、シトロエンなど比較的全車種を見ることができる。その中で目を引いたのが、三輪車の小型自動車だった。もともと身障者用に格安で売り出された車とのことであるが、結構多くの用途で使われているようだ。おそらく日本では排ガス等の規制が厳しく走ることができないのだと思う。 日本人が中国で車の運転をするには中国の免許書が必要になる。免許を取るには、学科だけをとればいいのだか、学科試験の時に通訳も一緒に同席することができるため、当の試験者に知識がなくても受かることができるようだ。実技は日本の免許があれば免除の免除ができるとの事。車の通行は右側である。常時右折可である。アメリカと同じ。ただし、人のマナーは最悪。
人の生活、近況:
中国人の戸籍は、農民戸籍と都会戸籍があって、農民戸籍の人は都会には一般的に住めないようになっている。本来は農民を人口を一定以上に保つことが目的だったが、昨今の農業技術のおかげで、農民一人当たりの収穫量が増えたため、今の農民でも人が多すぎるようだ。農民が都会に住むには、お金を払うか、長期的な就労の事実などのいくつかの策があるが、それでも限定的である。職業にも制約があり、何でもできるようにはなっていないようだ。たとえば食堂の給仕係りはいくら優秀でも食堂のフロントの役割はできない制度があるようだ。
古い制度と新しい環境とが混在する中国国内。いろいろな矛盾の中で一つひとつ代替策を講じながら進んでいるようにも思える。以前は国の政策は絶対的であったが、最近の政策決定事項に国民が反対の集会やデモを行うようになって、その結果として政策変換を行った事実はよくうかがえるようだ。いずれもインターネットの効果かもしれない。
大連の概要
中華人民共和国遼寧省大連市(副省級市)1899年成立
面積 約13,237Ku(市区部 2,415Ku)
人口 211万人
言語 北京語と大連方言
気温 -2℃(2月)〜24℃(8月)
経度 仙台、サンフランシスコと同じ
産業 農水産業、流通、日系企業などのハイテク産業、
時差 日本と1時間遅れ
土産 お茶、印鑑、ロシア製品、新疆ウイグル手織物、、とのこと?
歴史
1889年、日清戦争の三国干渉の代償として清国から関東州をロシヤに租借した。ロシヤは東の地にあって不凍港であることの利点から大連を軍港と流通の拠点としてパリをモデルにして都市づくりを始めた。1905年、日露戦争で日本に租借権が譲渡され大連の名称となる。日本は大連を貿易都市としてロシアの都市づくりを継承しアスファルト舗装や大連駅を中心としてレンガの街並みを整備した。1945年第二次世界大戦末期、ソ連が大連を占拠し大連、旅順、満鉄とともに管理下に置いた。1951年中華人民共和国に返還され、旅大と名乗るが1981年には大連の名前となる。1984年から大連経済特別開発区が着工し現在の発展した姿となった。
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