プロローグ
39歳をフィリピンで迎え2日後の事であった。会社に有給休暇をもらい、南国でのひとときを思う存分過ごし、疲れ果てて熟睡の
飛行機の中の出来事だ。
フィリピンには5年くらい前から仕事の一環で何度も訪れていた。その日の数ヶ月前、会社帰りの居酒屋に仕事で
付き合いのある一組の夫妻とともにフィリピンの魅力を熱く語っている自分がいた。酒の手伝いもあって勢いに任せて、三人でフィリピンに行こう
との発案で意気投合していた。これから起こる惨劇をそのときは予測も出来ない。その日から心は風にそよぐ椰子の木が並ぶ南国に海岸に有った。
「きっと良い想い出になる」そのときはそう確信していた。
1994年12月8日(木)14時25分発、フィリピン航空、成田空港発セブ行き(PR433便)に搭乗してその夢を叶えようと 心弾ませていた。飛行機の中での退屈しのぎに用意した「ウノ」に三人は熱狂していた事を思い出す。私以外の二人にとっては、まだ見ぬ 異国の地への不安と好奇心が手伝い、普段に増してHighであった。単調なゲームであるがとても楽しかった事を覚えている。
これを始まりとして、3泊4日のつかの間の楽しみが始まった。セブマクタン島のリゾートホテルを中心として、昼は市街観光、スキューバダイビング
。夜はシーフード料理、カラオケと時間を惜しみ精一杯遊びました。
精一杯のあまり、カラオケ屋では吹っ掛けられた料金が高いという事で
店のママさんとこじれ、警察までも出てくる始末となったが、ひるまず日本人の正当性を貫いた。
そんなこんなでフィリピンでの時間を満喫し問題の帰国日である12月11日を迎えた。
事件直後
セブ発成田行きフィリピン航空PR434便。座席は46A。「ウノ」をやりながら来た元気は今はなく、席に着くやいなや、心地よいエンジン音に誘われ
ほとんどの乗客と同様に眠りこけていた。出発しておよそ5時間たったころ、それそろ飛行機は沖縄上空に差し掛かろうとしていた。
「パーン」その音は、乾いた非常に大きい音であった。
ほとんど全乗客が、心地よい眠りをじゃまされたわけであり、何があったかわからない状況であり、しばらく騒然とした空気だった。
しかしそれも程なく状況が見えてきた。機内一面に煙が立ちこめてきたからである。数人の人が何が有ったのかと煙の元へ走り寄っていった。
スチュワーデスがそれを押さえ、席に着くようゼスチャー混じりで呼びかけている。我々の席は、「何かがあった」らしい席とは、前後も左右もまるで
反対の位置で、しかもその対角線上にトイレが有るため死角になって、席に座ったままでは見ることが出来ない。「いったい何があったのか・・」
気持ちははやるが、ここで出歯亀如くウロツクのも、良心的に許せないため平常心で事の流れを見守ることとした。
時折機内アナウンスで
医者はいないかとか、「何かあった」らしい近辺の席にいた人は後ろに移れなどのアナウンスが流れてきが、何が有ったのか、今どうなっているのかなどに
関してのアナウンスはまるでない。その間、スチュワーデスは慌てることもなく通常の勤務
態度を我々に見せており、時には口元に笑顔すら見せる余裕であったため、「何かあった」のは大したことではなかったのかと思わせるくらいで、
ひとまず安心感を抱いていた。
何があったか 一段落して、窓の外を見ると何と航空自衛隊の飛行機が見える、おそらく両脇にを援護するように飛んでいるのだろう。これを見て少し 緊張が走った。さらには今度は、乗っている飛行機の主翼の後ろから何か液体が勢いよく流れ出している光景が見えてくる。素人が見てもわかる、飛行機燃料に違いない。 透明な澄んだ液体が、どんどん、どんどん、、火を消すかのごとく大量に発射されている。このまま出し続けると飛行機のエンジンが止まるのではないかと 錯覚するくらい、どんどん、どんどん、どんどん、出ていく。やっと、機内放送が流れたが、状況説明ではなく那覇空港に臨時着陸する旨の連絡であった。また続けて 着陸後、警察と消防が乗り込むので、用事が済むまでは席で待つようにとの事であった。
機体は那覇上空に差し掛かり、自衛隊の護衛機も何時まにか姿を消していた。空港が見えてきて、滑走路が見えてくると、消防車、救急車の赤い ランプが見に見えてきた。何台いるんだろう。。。飛行機は程なく無事着陸し、機内ではなぜか拍手の音が響き渡っていた。
さあ、予定とは違う場所であるが、日本には変わりないので早く降りよう、と身の回りを整え通路の列に加わり降りることにする。出口は機体の前方であり
方向的には「何かあった」らしい方向である。出口に向かいながら、「何があった」方向をのぞき込む。「っあ!」凄まじい光景が目に入ってきた。
椅子の背もたれは殆ど前に倒され、酸素マスクが垂れ下がっている。至る所に毛布が散乱している。何があったのかは想像が出来ないが、「何かあった」のだ!
列を作って那覇空港ロビーに誘導される。その途中、前を歩いている人に聞いてみた。(私)「何が有ったんですか?」(前の人)「爆発があって人が死んだんですよ」
(私)「・・・・・」
事情聴取
「何かあったと」は想像していたものの、人が死んだとは想像の選択肢の中に入っていなかった。テレビや映画では日常茶飯事のごとく受け取られるシチュエーション
ではあるが、現実界では思いもよらぬ事である。ここまで聞いて、機内のスチュワーデスの行動、アナウンスのないことがわかった。もし真実が判ったら、全員が
パニックになっていたのだろう。賢明な判断であった。その後聞いた話では、「爆発」が有った時点からしばらく操縦不能だったとのこと。また、那覇までの
飛行も飛行機は十分な状態ではなかったとのことである。
我々を含む飛行機を降りた一行は、空港内の待合いロビーに通され、しばらく待つように指示が出た。そのロビーは通常では飛行機の出発を待つロビーであるが この件で、他の旅行客人は出入り禁止になり、我々だけが押し込められた格好である。このロビーにはテレビが3台据え付けられている。折しもNHKニュースをやっており 今回の爆弾事件が放送されていた。この段階では、発生した事実が放映されていたが、その理由、事故か故意かも不明である。
やがて、3、40人の警察がロビーに現れ全員の事情聴取が行われる。 住所、氏名はもちろんの事、旅行の目的や、同行者の関係、先方では何をしていたか、など2、30分の時間だと記憶している。
一通りの聴取が終わった後も、このロビーからは出られない。途中、軽い食べ物(ハンバーガーだったか?)と飲み物が配られたが長い時間の軟禁状態が 続いた。
泡盛 その待合室には、ちょっとしたおみやげ物売り場が設置されており、そこで初めて「泡盛」を知った。試飲も出来るようになっており、1年モノと5年モノが 試飲できる。暇つぶしに立ち寄った。両方を試飲したが、確かに5年モノのほうか深みのある味の様に記憶している。5年モノの値段を記憶していないが、 お酒として気楽に替えるような値段ではなく、1年モノを買い求めた。それは今日でも我家に残っている。
那覇で一泊 警察から、本日中に東京に帰る必要がある人は申し出てくれ。実費で那覇からの飛行機便で帰っても良い旨の アナウンスがあった。これに対して数人の申し出があり、この待合室から出ていく人をうらやましそうな目で残った人が目で追っていた。 フィリピンと同じ南国の沖縄ではあるが、やはり12月の日本であるため、早々に日が沈む。外も薄暗くなり始めた頃、残った全員は那覇市内のホテルに 連れて行かれた。当然であるが、外出禁止の命令である。バス数台がピストン輸送しながら我々を運ぶ。一旦部屋に入り一休み、夕食を採った後、もう一度 事情聴取が行われ夜の11時頃までかかった様に記憶している。
当然ではあるが、事情聴取より警察はこの事件に対するヒントを何も得ることが出来ず、我々は翌日のフィリピン航空の特別便で成田に帰ることが出来た。 そのころ、フィリピンの知り合いや会社では大騒ぎになっていた。
![]() これは、その時飛行機に乗っていた証拠となる搭乗券。帰りの搭乗券が2枚有るところがミソ。三枚目は、那覇空港で発券して貰った。氏名の印刷がないし、搭乗の月も抜けている、とても貴重なもの。
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事故の状況を持っていたビデオカメラで撮影した内容。音飛びが激しいので画像だけで見てく下さい |
読売新聞より (液体爆弾 機内で調合)
◆94年の比機内爆発 1人死亡 重傷者は今も足に破片 足元の床が吹き飛んだ。白煙が機内にたちこめ、天井から酸素マスクが一斉に下りてきた。 1994年12月11日昼前。マニラ発セブ島経由成田行きのフィリピン航空機434便で、主翼付近の座席「27K」で、 まどろんでいた北海道在住の臼井幸彦さん(38)はごう音と衝撃で跳び起きた。逃げ出そうとしたが、身動きができない。左足は骨折し、血まみれだった。 すぐ前の席「26K」の男性が上半身を起こそうとしていた。人さし指を立て、女性乗務員を呼ぼうとしたように見えた。だが、次の瞬間に、彼の背中は左側 にゆっくりと崩れ落ちていった。 彼の左隣「26J」に座っていた千葉県内の男性会社員(32)も、体中が熱くなり目を覚ました。右腕はやけどで白く膨らんでいる。顔の右半分も焼けるように痛い。 右隣の男性は、ピクリとも動かなかった。男性会社員は女性乗務員から「大丈夫ですよ」と励まされた。自分の方を見て涙を流す人もいた。「まだ死んでいない」。視線でそう訴えた。 ◆「80%操縦不能」 コックピットでは、機長が機体を必死で立て直そうとしていた。だが操縦かんは思うように動かない。「80%操縦不能」。沖縄・那覇空港の管制塔に緊急着陸を要請した。 1時間後に着陸した434便からは、乗客乗員293人のうち負傷者10人が病院に運ばれた。「26K」の男性、池上春樹さん(当時24歳)は即死状態だった。 日比両警察の捜査が始まった。434便の女性乗務員は、比側に重要な証言をした。「アマルド・フォルラニ」を名乗る中東系の男はマニラ空港で、「35F」に座った。 彼女が気が付くと、男は「26K」に移っていた。その席にいたのはわずかな時間で、次に気づいた時、男は「29K」に移っていた。434便は午前6時過ぎにセブ島に到着。 男は去り、「26K」には出張中の池上さんが腰掛け、シートベルトを締めていた。 沖縄県警は現場検証を担当した。機内から採取したミリ単位の破片は1000個を超えた。科学捜査研究所の物理科長(46)は12月下旬、 それらの中から、ローマ字の刻印を見つけた。デジタル時計と乾電池の部品だった。 (yomiuri.co.jpより引用しました:現在は公開されていません)
この事件は、単なる出来事ではなく、後に大きな事件につながっていたのだった〜。(ドラマ仕立て)
その後7年あと、2001年9月11日。ここはアメリカニューヨーク。そうです、同時多発テロの勃発です。この犠牲者は約3000人になると言われている。