50歳になったとき、Project50を立ち上げた。当時、仕事も順調となり、ある節目になった単身赴任を経験した。自分の人生では初めてとなる一人暮らし、要領がわからない不安以上に新しいことへの興味から毎日が夢のような生活だった。その頃に立ち上げたProject50は兎に角どうして遊んでやろうかとの思いが一杯詰まった計画だった。当時のマイブームだったマラソンや自転車乗り。電車に乗ったりハイキングに行ったりとなんでも一人でできる事を躊躇なくやってみた。そしてその結果を記録した。今振り返るとその時の記録が一杯あることを再認識できる。あの頃は夢中だった。
そして今60歳を過ぎ、人生の折り返しはとうに過ぎてしまったが、残りの人生を悔いなく過ごすために再びプロジェクトを立案する。Project60である。この計画の立案に当たっては、従前から通勤電車の中でいろいろ考えてきて、どんな課題にするか、従来の課題も十分できていないのに全てをゼロクリアしてやり直すのも納得感が持てないし、一時はこのままProject50のまま継続することも考えたこともあったが、今までやっていなかった事への挑戦ややりきったことへの課題クローズもあり今回の生計画をすることを決めた。しかし、計画を立案してみると新たに取り組む明確な課題はなく従来の延長線である課題が中心になっている事に自分の行動範囲の小ささを自覚した次第である。
さて、Prject60についての位置づけに関して考える。日本人の平均余命は男性の平均値は79.59歳となっており、これを基準に考える70歳を迎える時分でもまだ余生があり次なるProjectを計画できる人生設計が可能との見込みでる。あくまでも見込みである。こういった背景の中で立案する経過は、終焉を迎える残り人生の序盤戦となり、やり残したことをまっとうする章に当たる。この章でやり残したことのすべてを完了させ、次の章でクロージングを行い次世代への引継ぎを行うことで人生の歴史を終わることができる。
具体項目に関して一つ一つ考えをまとめてみる。
- マラソン:マラソンを続ける理由としては複数の要因がある。一人でも好きな時間に気楽に楽しむことができる事。長い人生をより長く生き抜くためには体力が必要でそのためには足腰が頑強でなければならないと常々考えており、そのためにも走り続けることが重要だと考える。また、体調を維持していくには健康でなければならず、決して肥満であってはならない。単身赴任を始めた頃は、体重も今より10Kg以上もあり昔から来ていた服も殆ど着られなくなっていて、そこで始めた一人暮らしは肥満を助長するものでありその年の健康診断で、初めて要注意の警句がでた。これをきっかけに肥満予防のために食事に気を遣うようになり且つマラソンを始めた。このことで体重は元に戻り健康診断での警告も消え健康な体に戻った。マラソンをやめるとこの健康体がまたわくるなってしまうそうに感じる。足腰が元気なうちは開催されるマラソン大会にも出場して常に努力をしなけれはならないと思う。追伸:2015年の暮れに帯状疱疹を患い一時期走ることをやめた時期があった。これが引き金となり走ることにやや消極的になると途端に体重が3キロ程度増えたことがある。気を緩めずに長続きするような走りをしなくてはならない。。と反省。
- 定年後の生活設計:会社の定年は60歳で、その後雇用延長制度を活用して最長65歳まで働くことができる。今の会社に入る時からこの制度はあり、そのことがこの会社を選択したことの一つであった。いま60歳になって考えると、あと5年後には会社を定年となりその後の計画はまだ立っていない。その頃になると年金も支給されているのであえて働かなくても、生活するお金の目途はできている。一方、普段の自分の生活はどうするかの計画はまるで白紙の状態である。あと5年の間で、楽しく興味を持てる時間の過ごし方を見つけて自分の生活の歯車に据えつけをしなくてはならない。諸先輩方は野菜を作ったりしているが、この年になって自分の知恵だけではできそうにも思えない。隣近所に仲のいいい知りありがいていろいろ教えてくれるのならそれも一つの選択かも知れないが、自分の性格からするとそんな人を積極的作って、人の輪の中に入り込むようなことはしないので、まずもって野菜作りの選択肢はないと思う。趣味に没頭して何かをやり通すことも考えられる。例えば仏像が好きで、全国の全世界の仏像を探し求めて行脚することも考えられる。この段階では仏像には興味ないが、ほかの何かに興味があったとしても行動する時のお金が必要でありどこまで今までのお金が続くかが疑問である。ただ、世界旅行は年とってもしたいと思う。どんなことが長続きして、やりがいのあることだろうか?
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自分史発刊:私の父は定年を迎え子供のために一冊の本を残してくれた。幼少のころに学んでいた俳句のことを中心に自分の人生を書き綴っている自分史である。その本を当然ながら生前に書き上げ、それを一人ひとり子供に手渡ししたことは、いったいどんなメッセージがあったのだろうか。受け取った直後照れくささもあったのだろうがこの時点でそれを読むことは出来なかった。心の中で、父が他界した後で読んでみようと心していた。それから16年後に他界することになるが、葬儀を滞りなく済ませた後でページを開いて読んでみたが、殆どが俳句のことだったのであまり興味がわかず全てを読まずにいた。あまり感慨もわかなかった。2016年の7回忌の法要が終わり改めてこの本読み変える機会があった。自分の幼少のころ彼の父は、私の祖父は早くから他界して自分の母親と兄弟と我々子供たちを養ったとのことが記録されていて、それ自体は母親から聞かされていたので知っていたが文中に以下のことが書かれていた。
私の今までの人生は苦難の連続でした。16歳の時父親と死別し、母と4人の弟、妹を郵便局の安月給で養い、成人独立した頃より息つく間もなく4人のわが子の養育に身心の休まる暇もありませんでした。
このように書かれてある一説を見つけた時、生前に一言声を掛けてあげればよかったかと後悔する。「十分いろんな事を教えてもらったし、いい経験もさせてもらった。そして親となった今父親の偉大さを感じるよ」と。決して自分の子供に同じ様に感謝してほしいとは思わないが。こんな考えでお前らを育ててきたこと忘れないでほしいとの思いで、自分史を書き残していきたいと考えている。
40年の勤務を終え無事退任したとき、妻と話した事ですが、ボーナスを私等夫婦の娯楽に計画したことは一度もなく借金の穴埋めに消えていきました。
この様な経済的苦難、職場ストレスに耐えていかれたのも常に趣味を持ち、心にゆとりをもって生活出来たからと存じます。
子供らには、十分な教育ができなかったことを申し訳なく思っているが、私としては精一杯の生活であったことに免じてゆるしてもらいたい。妻も何一つ言わず黙ってついて来てくれた事を感謝している。この小冊子を子や孫、親族に読んでもらい私の歩んできた足跡を知ってもらいたい。 - バイクの旅:16歳を迎える時分を振り返って考えてみる。社交性がなく、人見知りで、積極性がなく、落ち着きがなく、後ろ向きで、、考えると良いところ無い子供だった。16歳は、高校生の1年生で運転免許が取得できる年齢である。翌年の1月に道路交通法が変わり、バイクに関しては、大型、中型、小型に分類される直前の12月の運転試験場にいた。受験していたのは自動二輪で、午前中は法令で午後は実技試験、午前中は試験が通れば午後の実技試験を受験できる。午前中の試験はパスしていたので午後の実技を受け通れは1200ccであろうが限定なくバイクに乗ることが出たのに、午後の試験を受けず午前中の法令試験だけで原付免許をもらって帰った。実技の練習はしていないので受かる自信はまるでなく帰って事には後悔していないないが、なぜ自動二輪の免許を取得しようと心に決めて邁進いなかったのか?根性がなかったのだろう。良いところのない子供だった。最近はあまりないが50歳台までは、よく夢の中でオートバイに乗った経験をした。それほどオートバイが好きなのになぜ免許を取らなかったのか?そして今でも運転免許は取得できるのになぜか取得できていない。このまま天国までこの引きずった思いを持ち込むのは悔いが残る。前回のProject50でも課題としていたが実現していない。たいしたことではないのに一つ壁を越えられないのが実態である。なんとかこの壁を越えて風の中を走ってみたい。
- 輪行旅行:小学生の時から自転車に乗っている。小学生の時は、たしか中古の自転車をペンキを塗ってもらって与えられたと記憶している。車体の色は青だったように覚えているが何でハンドルが銀色のペンキを塗られていた事を強く記憶している。それから高校に上がるまでは兎角誰かのおさがりの自転車だった。高校の2年生になって、父親の原付で通学していた。これもおさがりだった。その年の夏休みにバイクに乗って車とぶつかる事故で、原付は大破し、自分も2週間程入院する事になった。これで通学する交通手段がなくなった事で、やっと新品の自転車をかってもらった。就職し寮生活を始めると、先輩の使っていない自転車がありそれを頂けることになり、動かなくなったチエーンをきれいに掃除し動くようにして何とか乗れるようにリペアした。それを使って一度通勤をしようと近くの駅まで向かったが、鍵をしていないことを電車に乗って気づいた。帰りの駅まえで自転車を探したがついに見つけることができない苦い思いである。時が過ぎて単身生活を始めた2007年、自転車がほしくなり、自分のお金で自転車を買った。今までで人生で自転車を買ったのは、わが子の自転車であり、自分の自転車は初めてだった。この自転車で2007年ごろから片道40Kmの通勤に使ったり色んなんところに行くようになった。行動範囲が広がった。日本にある街道の始まりは日本橋にある。その街道を自転車で走ってみたいと考えた。東海度、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の5街道を制覇することに熱中し制覇した。こんなことがあり、自転車に夢中になった。Project60においてもこれを継続することで、視野が広がると共に足腰の強化が進むことを期待している。
- 住まいの再構築:自分の家がほしかった。それは実家から遠く離れて暮らしているからかあるいは元々生活として借家であることが性分として合わなかったのか、いずれにしても夫婦そろって自宅がほしかった。昭和59年11月に現在の場所を買い新居を設けた。当時29歳の年であったが借金をして何とかマイホームを持つことができた。その当時は次男の出産と重なり9月末に誕生しすぐの引っ越しとなり忙しない時期であった。建設条件付きの建物であったが、間取りや外観は自由設計だったので相当考えて決めたはずが、いざ住んでみるといろいろと不便なところが目に付く様になってきた。子供の受験に合わて、今まで一つだった子供部屋を二つにするために一旦は改造を考えたものの、かかる投資に対する効果があまり見られなく、再度建て直しをすることにした。平成10年に2軒の家に建て替える。その後暮らしているが、家の不便さはさほど感じなくなったが今度は立地条件に不満が出てきた。やはり駅から遠いことから移動に手間取っていしまうことが気になってくる。年を取るとなおさら車の移動にも億劫になる反面、時間が一杯あることから色んな所に行きたくなる。そうすると駅に歩いていきたくなる。こういった経緯からマイホームの再構築にマインドがわいてきている。ただし、投資も相当必要であり慎重に考えたい。
これらの計画は計画として、ゴールは設定しないこととする。
日本人の平均寿命は男性は80.5歳なので、せめてその年までは生きていたいと切望する。ただし、だれも自分の寿命を保証してくないので、それぞれの課題にゴールを設けることの意味が今ひとつ決心できない。Project60というから70歳までにやる事を決めてもいいモンだが70歳を前にして死んでしまったら、永遠に目標を達成することはできなくなる。また、仮に70歳まで生きていたとしても、その目標に到達しなかった場合で、どんな問題があるだろうか?となれは、このProjectのゴールをもう少し手前に置きそれを日々延長することでやりがいと達成感を認識したらどうだろうか。その日一日の成果が向かう方向にそっている事を認識できればそれでいい。この積み重ねがどこまで続けることができるかが、自分の人生の成果として表れて来て、次世代に引き続ければそれで本望である。
生物学的に生き物の目的は子孫を残すことで、しかも同じ種ではなく、自分の子孫を残すことが目的であるといわれる。人間の知能が高くなってくると、単に子孫を残すだけでなく、人生を楽しく過ごすことが重要なことなり、逆に子孫を残すこと以上に重要な目的となってきた。結婚せずに独身のままでいることは生命の本質が失われてきている時代である。
私は幸運にも子孫を残してきたのでこれ以上生命の目的を果たす必要はないので、今後は付加価値である、楽しい人生、余生を過ごすことに専念しよう。このProject60をお手本に。